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スタンフォード日記のおまけ [スタンフォード日記]

昨年の今頃、勤務先のニュースレターに書いたものが今週活字になりました(驚)。
以下に記録のため原稿を転載したいと思います。在外で行っていた研究に評価を頂き、神奈川大学学術褒賞を受賞しました。研究と向かい合う姿勢に同僚、所属先から評価を頂けるとはありがたいことです。

在外研究で考えたこと
 昨年度、在外研究という,まったく自由な,研究のためだけに使える365日を与えられた。一年の間,大量に読み,意見を交わし,そして書く日々を過ごした。様々な分野と世代にわたる研究者とふれあうなかで、研究者として何を生み出すべきか、そのような根源的な問いにも思いを巡らすことになった。
 在外先で感じた「意見を交わす」ことの大切さについてはすでに別に書き記すことができたので(注1)、ここでは研究者にとって「書く」ことの意味について、考えてみたい。

なぜ書くのか
 研究者の卵になった頃,指導教官から「検索に頼るな」と薦められたこともあって図書館の書庫に入り浸ったことがある。数百万を数える書物,そして聞いたこともない洋雑誌の山を前に、研究を活字にするための媒体がこれほどまでにあるのかと,埃くさい書庫の中で驚きを禁じ得なかった。当時の感慨を、さらにスケールの大きい在外研究先の図書館で思い出すことになった。
 そして,至極あまり前のことに——書き残すことでこそ研究者は時空を超えて議論をぶつけられることに——気づかされた。
 もし書かなければ,万巻の書を読んだとしてもそこから生み出された新たな知見を世の中に伝えることはできない。在外先では萌芽期の研究に意見を交わし合うための場が多くあったことにも驚かされたが、意見を交わす場は聴衆が限られ、また記録を残すことがあってもそれは主たる目的ではない。書くことによって考え方は正確に残すことができ,何よりさらに多くの専門家からの批判と検証を受けることになる。それが短い形であっても、または電子的な形でも,異なる解釈、データを残すことは重要だ。
 言語脳科学者の酒井邦嘉の言葉を紹介したい。「研究もまた自分らしい個性の表現なのである。このように考えれば,研究者のめざすものは芸術家のめざす自己表現となんら変わらない。」(『科学者という仕事』より)
 もちろん書くことは責任を伴う。研究者は学術研究をしたもの以外,活字にはしてはならない。批判に対して十分に反論をする材料を持てないのであれば,それを書くことは研究者として無責任としか言い様がないからだ。研究者がその肩書きでコメントをすると、「権威」を利用することでそれなりのものとして一般社会に受け入れられることがある。SNSの流行はその傾向に拍車を掛けている。
 在外先で同世代の研究者が専門性への使命感と社会への責任感のために学究に専念している様を目の当たりにし、論文の質を高めることこそ研究の王道であり、書くことが研究者として背負うべき責任だということを改めて痛感することになった。

預金を引き出して書くのか、貯金をするために書くのか  
 ここからが次のポイントだが、果たして私たち研究者は何を書き残すべきなのだろうか。今やっている研究に決まっているではないか、と反論されそうだが、ここで問題にしたいのはそのアプローチであり、とらえ方のようなものだ。
 私たちはややもすると、長年研究を蓄積し、「預金を引き出すように」書くことが研究ととらえがちである。
 たしかに、大きく預金を引き出して書くべき時はある。十年、二十年と時間を費やしてきた研究を出版する、これはまさに預金を引き出した出版のやり方で、素晴らしいことだ。
 しかし,再び自戒を込めていえば、避けるべきは小さく預金を引き出して書く行為ではないだろうか。研究者としてのそれまでの蓄積を利用して、幾ばくかの追加的な研究で新たな成果を作ってしまうことは安易な道といえる。
 在外先で出会った多くの客員研究者は、研究の幅を広げるため新しいことに常にチャレンジしていた。そこから刺激を受けた私は、書くことにはもう一つのパターンとして「貯金をするために」書くこともあり得るのではないか、と思うに至った。
 (いわゆる文系研究者にとって)書くという行為は,その過程そのものが勉強になる。もともとその論文を書こうと思ったときに、すでに中核となる議論は存在していることも多い。しかし論文をまとめるため、数週間や数ヶ月にわたって関連論文を読み込み、ノートを書きためていくと、様々な発想が生まれくる。
 この1年,書く行為のなかで最も重視していたのは,この追加的な、当初想定していなかった発想を大切にする,ということだった。
 たしかにその時間は回り道のようにもみえ,目の前の出版にとって本質的ではないかも知れない。しかし,自分の今の最大の関心事のごく周辺にある議論は,まさに自分の次の関心事に大きな刺激を与えるものかも知れない。
 そう考えるに至って,それまであまり手に取らなかった文献にも積極的に手を伸ばすようになった。集団的自衛権の問題について論文を作成するに当たって、正戦論やアフリカの紛争研究を読み直した。米中関係の研究では19世紀まで遡り文献を漁った。社会心理学など全く異なった分野の研究にも手を伸ばした。時間は限られていても、少しでも気になったものを一読してみる、または少なくとも心の余裕が出来たら手を伸ばせるところに置いておく。それが「未来」の自分の研究への投資となる。
 しかし、読んだだけでは貯金になりづらい。人間は忘れやすく、研究者も例外ではないからだ。
 メモに残された発想をどのように効率的に残すべきか、「貯金の方法」がこの一年の課題だった。手で書いたメモはすべて撮影し,思いついたことはどんどんとタイプし、Evernoteに記録を残すようにした。発表した文章にはあらゆるところに今後の研究課題を忍ばせた。もちろん、新しい着想から文章を作りだし、新たに発表することもあった。論文という形式を取らずとも、書評や電子版の媒体、会議用ペーパーなど様々な形で文章を発表する機会はある。とくに英語の電子版は多く、それを積極的に活用した。
 書くとは、研究者にとって極めて多くの時間を費やす行為だ。最後に大きく引き出すためにも、貯めるために書き残すという目的はもっと理解されてよいのではないだろうか。特に自然科学の世界では当たり前のことと思われるかも知れないのだが、政治学や法学の研究者も、預金を(大きく)引き出して書くだけでなく、貯めるために書くことも発想の転換として考えてみてはどうだろうか。
 冒頭に引用した酒井の言葉は、長谷川修司による近著『研究者としてうまくやっていくには』で知ったのだが、長谷川の書はこれもまた興味深い、彼の恩師の言葉を私たちに伝えてくれている。
 「研究とは,マラソンを走りながらおにぎりを食べているようなものだ」
 兵糧をどのように作るべきか。そのためにはがむしゃらな努力に加え、一工夫も必要ではないか。

注1)筆者は2014年4月より15年3月まで,長期在外研究員としてスタンフォード大学アジア・太平洋研究センターに在籍した。同大学の研究生活(とくに意見を交わす重要性)については,神奈川大学アジア研究センター,ニュースレター第3号にて紹介した。